私の経歴と抱負(平成16年度家主セミナー案内文より抜粋)

前略

 今回、家主様向けセミナーのD.M資料の中へ同封させていただきました「不動産投資のご案内」 の文章の最後尾に記入しました通り、当社の経営者トップが何を考え、何を行おうとしているのかも判らないのではお客様に投資勧誘どころではないと考え筆をとりました。
 まず、私が何の為に不動産業という商売をしているかという事について述べてみたいと思います。その前にこの商売に行き着くまでの過程を話してみたいと思います。

 私の誕生から話した方がより理解できるのではないかと思い、そこから話したいと思いますが、S22年1 月に小川町に生まれ、戦争帰りの病弱な父とその看病のかたわら毛糸の行商で生計を立てた母に私と弟の二人の子供は育てられました。ボロ家に住んで食べるのが精一杯の貧しい生活には慣れました。しかし、子供心に母の細腕一本で4 人が食いつないでこれた事は、商売のおかげだと何となく感じていました。商売を始めるまでは、母は失対事業である夏井川の堤防の築造の仕事に出ていました。仕事の内容は昔はブルドーザー等何もなかった時なので、モッコに土を山盛り入れて一日何十回も上り下りを繰り返し、自宅に戻った時はくたくたで食事もそこそこに崩れるように眠りに入るような日々が続きました。1 回運んで何円の世界で、とにかく安かったので食べるのにも事欠く始末で、母も一時無理して体をこわして仕事を休んだのを機会に、父が結核で入院している須賀川の病院近くの毛糸屋さんと出合って商売をする決断をしたようです。

 商売も楽ではなく、昔農家で飼っていた羊の毛を自分でハサミで刈って、それを夏井川でドラム缶に入れてモノゲンと言う洗剤と一緒に足で踏んで洗うのですが、真冬はしもやけやひび割れに悩まされたようです。それだけやってドラム缶1 本分の原毛に対して、毛糸が一握りしか交換できなかったようです。そこで加工してセーターにして行商をして売る事を考えた訳です。その頃は、私も中学生で進学を決めなければならない時でした。私としては磐高に進学したかったのですが、父が病気で寝込んでいてとても高校までは進学させられないくらいの状況でした。どうしても高校には行きたかったので何とか粘ってみて条件付でOKになりました。その条件とは高校を卒業したら毛糸屋の仕事を手伝ってもらうのでその為にも平商業高校以外は駄目だという内容でした。自分としては、理工関係が好きだったので技術者(エンジニア)を志望していましたが全く望みは叶いませんでした。それでも、高校へ入れるとあって喜んで条件を受け入れました。平商業高校も3年生になると同級生のほとんどが各企業に勤務が決まるにつれ自分としても銀行に勤務したいと両親に懇願しましたが、全く聞き入れてもらえませんでした。卒業して、約束通り毛糸屋の手伝いをする事になり、産業用のメリヤス機械(家庭のセーター編機の大きい物)でセーター編みを、父が亡くなる20 歳過ぎまで2年以上朝から夜遅くまで日曜・祝日無しでぶっ通し働き通しました。休んだのは結婚式とか何かの行事位で、それ以外で休むと母から怠け者呼ばわりされ、罪悪感を感じ休める状態ではありませんでした。その頃から、私と母の考えが違うことをはっきりと見識する事ができ、父の死亡を機会にサラリーマンになる決断をしました。行商へ母と同行した時は、休日には皆遊びまわっているのを見て常にうらやましく思っていました。母は苦労したせいか、どうしてもお金にこだわります。私はお金は幸せになる為の手段であって目的ではないことを自覚してきたつもりです。そこで、母の反対を押し切ってサラリーマン(経理事務)に就く事になりました。
サラリーマンになって気付いた事は、歯車の一部で一生を終わりたくないという考えから将来の独立を考えました。そこで経理事務から不動産業の営業に入り、最初の年に宅建を取得しました。その後不動産の仕事を覚え、S59年12月(37才時)に独立しました。事務所はカタクラ(現在のサティ)の前の近内行政事務所の2Fを借りました。開業時は、とにかくお金がなかったので、貸家の看板を上げるのに河原で、流れ着いた板切れと棒で立て看板を作ってカレンダーの裏側の白い部分にマジックで記入して雨で濡れないように、透明なゴミ袋をかぶせました。1年近く1 人でお茶出しからトイレ掃除他営業までやっていて仕事がとうとう間に合わなくなってきて1 人事務員さんをパートで雇い入れました。その後順調に毎年事務員さんを増やしていって気が付いたら現在のパートを中心に50 名以上の大所帯になっていたという訳です。(平成30年8月現在 約90名)会社の実績も過去18年間一度の赤字もなく順調に賃貸及び売買仲介共、右肩上がりに推移してきて去年と今年は、2年続けて法人所得番付に載る結果となりました。しかしながら、これまでになれたのも1人1人の家主様を始め皆様のおかげだと思っています。(平成30年の現在、県内売上高3年連続No.1にまで成長する事ができました。)

以上については、現在までの経過を述べてきましたが、ここからは将来の私の想いを述べてみたいと思います。まず、私が何故商売をしているのかというと、前述したように、より幸せな生活をする為の手段としてお金が欲しいからです。又、そのお金は世の為、人の為になってその見返りでなければなりません。お金だけが目的だとしたら現在テレビ新聞で盗聴事件で話題になっている武富士と同じような事をすれば全国一の長者番付に載るかも知れません。

 しかし、このような事件を起こし果して本人は幸せでしょうか。一生に一度の人生です。人に感謝されつつ人生を終えて、死んだ後も「あの人のおかげで今の幸せがあるのだ」と言われるような人生を送りたいと思います。後継者の部長とも酒を飲んだ時は良く話をするのですが、とにかく見返りを求めないで幸せをどんどん提供すれば自然と向こうから幸せがやってくるものだとお互い実感しています。要するに、お客様の見返りであるお金の価値以上の満足したサービスを提供して上げる事ができれば良い訳です。
つまり満足したサービスが提供できなければその見返りであるお金はもらえないか、もらえてもわずかという事になってしまいます。我々の給料はお客様よりいただいているので期待通りいただけないと非常に困ってしまう訳です。この事を考えると、お客様は神様的存在、つまり顧客第一主義に徹しなければならないと強く感じます。それからしてまず、お客様の幸せを見届けてから我々の幸せが訪れるのが本筋ではないかと思います。又、私の今後の抱負(経営理念及びビジョン)は、売買及び、賃貸の客付力地域No.1は勿論の事、国民の大切な資産である不動産を通して、より有効活用の提案及び節税に関するまで総合的な不動産コンサルティング事業を拡大したいと思います。その為にも、勉強を欠かす事はできません。間違っても、当社の提案した事業で家主様を破綻に追い込むような事は、絶対にあってはならないと考えます。
現実的には、家主様へ各業者が寄ってたかって食い物にするケースは今でも後を絶ちません。今後、新築後10年を経過した20~30年賃料保障の物件等は、他人事ながら社会問題まで発展しないかと心配でなりません。(平成30年7月26日付朝日新聞の3日連続の特集の通り、見事に的中し社会問題に発展しました。当時顧問弁護士にその事を相談に行きましたが、それを規制する法整備がなされていないとの事で一個人としての限界を知らされました。)

 又、私には贅沢というものが肌に合わず、質素な生活に満足しています。現在土地65坪、建物26坪、築30年のボロ家に住んでいて健康の為に粗食に徹しています。その分今後できる限りお世話になった家主様及び入居者の方々へ少しずつでもご恩返しできればと思っています。以上、長々と思いついたまま述べてきましたが、私を始め従業員が幸せになる為には、家主様を始めお客様が必要です。まずお客様に幸せになってもらう必要がある訳です。

 最後に、私の信条として特に誠実・感謝・勉強・健康を挙げたいと思います。
 今後どれだけ家主様及び入居者の為にお役に立てるか判りませんが、精一杯努力させていただく覚悟ですので、今後とも末永いお付き合いの程、よろしくお願い申し上げます。

 草々

平成16年7月1日 代表取締役 吉田 弘志

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